アメリカの大学院で博士号を取得しても,大学教員になっても,大学英語の授業を担当していても,TOEFLやTOEICで満点が取れても,英語が外国語であること(母語話者でないこと)に変わりはありません.
すべてのことに共通することだと思いますが,外国語の学習にゴールはありません.
人生は,小さなことの努力の積み重ね. 大切なのは,日々の努力と鍛錬の積み重ね.
大きなことを成し遂げるには,コツコツと同じことを続けること.止めないこと.
「英語が上手くなるためにはどうすればいいですか?」というよく聞かれる質問に対するこたえでもあります.
今でも,英字新聞を読んだり,ニュースを聴いたり,英語母語話者の同僚や友人と話している中で,新しく,そしてとても素敵な英語表現に出会うことがあります.
「日々の英語」として,ここに書き留めていきたいと思います.
最後に,なぜこんなコラムを書くことにしたのでしょうか? 言い換えると,こうして英語の学習を続けることの意味はどこにあるのでしょうか?
文部科学省の「『英語ができる日本人』の育成のための行動計画」の作文には,「グローバルな経済競争への果敢な挑戦のためには,国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠です」と書かれています.
そのような功利的な側面が英語学習の目標(インセンティヴ)として重要であることは否定しませんが,英語教育を専門とする一研究者として,経済競争に打ち勝つことを前面に出す文科省の作文には,重要なことが欠落しているように見えてならない. この作文からは「二つの言語を学ぶことの本当の意味」が見えてこない.
思想家の内田樹先生は,「外国語学習について」という記事 (2018. 10. 31) の中でについて次のように述べています.
外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです。
「もう一つの言語を学ぶ」ということは,母語的な枠組みを抜け出して「もう一つの見方や考え方」を自分の中に身につけるということだと思います.
そして,新たに身につけた「もう一つの枠組み」を通して,それまで"invisible"であった母語的な枠組みが"visible"になってくる. それは,「自分はどういう人間なのか」を知るきっかけにもなります.
大学で英語を「教える側」になっても,同時に「学ぶ側」であり続けたいと考える理由,このコラムを書いている理由でもあります.
2019年1月
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